施設・文化財
建築情報
設計者 | 片岡 安 |
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施工 | 大阪髙橋組 |
構造 | RC造3階建 |
建築面積 | 200㎡ |
竣工 | 1927年 |
会館の建物は、当時奈良ホテル、大阪中之島公会堂など多くの名建築を手がけた片岡安(かたおかやすし)氏の設計になるものです。
昭和2年に創設され、丁度お堀の形をした船に建物が乗っている構造(ドライエリア)で、当時では非常に珍しい事例といわれています。
この建物は、戦火を免れ、阪神淡路大震災にも耐えてきた明治・大正時代の洋風建築と東洋風建築の特徴を折衷した建物で、原型のまま残していて、その美しい姿は、伝統の継承の意義を物語っています。
~ 数々の公共設備として活用されてきました ~
財団法人という成り立ちの由縁もあって、昭和10年には付属事業として、川向いに崇信幼稚園を開園し、昭和60年に閉園されるまでの約50年間多くの園児たちに、仏さまへの感謝の気持ちと奉仕の精神を指導してきました。(現在は緑地公園)
また、終戦直後には、約6ヶ月間のみでしたが甲南高等女学校の仮校舎としても利用され、昭和24年から同29年までの約5ヵ年間は芦屋市立図書館として市民に親しまれました。
現在も、各種文化教室を初めコンサート、講演会など、一般市民の集いに利用していただいております。
芦屋仏教会館について
~ 会館の生い立ちと理念 ~
伊藤長兵衛翁
芦屋仏教会館は昭和2年、誰もが気兼ねなく集える、開かれた聞法の道場とするべく、伊藤長兵衛翁〔丸紅商店社長(現(株)丸紅〕が、私財を投じ、大阪の財界人、宗教家等の人々の賛同を得て創設しました。
そして更には多額の基金を投じて、昭和5年には公益法人として「財団法人芦屋仏教会館」の認可を文部大臣から受けることにより、この事業の永続不滅を願ったのでした。
(このとき前身ともいうべき崇信会【宗教団体ではありません】は、事業運営の母体から、財団法人芦屋仏教会館の後援会に変わり、主として資金的バックアップをおこなう後援団体となりました。)
その発願の意図するところは、当時、世情人心が奢侈放縦(しゃしほうじゅう)に流れて、思想が過激に傾く風潮のあったなかで、宿弊を刷新し、精神的基礎を信仰に樹立し、永遠に滅びることのない生命を得る礎とするというものでした。
以来、その主たる事業として日曜定例公開仏教講座を90年余りにわたり、太平洋戦争と阪神淡路大震災の一時期を除き、毎日曜日〔現在は月3回〕に開催してまいりました。
なお、芦屋仏教会館は特定の宗教団体には属しておりません。特定の宗派を押し付けたり、祈祷を行ったり、自発的でない寄付などを要請することは一切ありません。
また講座等に関しては、継続的な参加を強要することもしておりませんので、どなたもお気楽にご来館くださいますよう、ご案内申し上げます。
私どもは、芦屋仏教会館の設立当初の理念を継承し、今後ともこの聞法の道場を守り伝え、事業の更なる発揚を期すべく精進いたす所存でございますので、みなさまのご理解とあたたかいご支援を賜りますようお願い申し上げます。
名称 | 公益財団法人芦屋仏教会館 | |
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現在地 | 兵庫県芦屋市前田町1-5 | |
創設 | 1927年6月5日 | |
評議員 | 評議員長 | 加藤 正芳 |
評議員 | 明尾 圭造 | |
同 | 天岸 浄圓 | |
同 | 清岡 隆文 | |
同 | 深川 勝利 | |
同 | 瓜生津 隆文 | |
理事 | 理事長 | 若林 泰一 |
常務理事 | 若林 幹雄 | |
理事 | 伊藤 秀子 | |
同 | 大田 利惠子 | |
同 | 片岡 雅子 | |
同 | 西藤 春樹 | |
同 | 田中 栄治 | |
常務理事 | 堅田 晃英 | |
監事 | 監事 | 高橋 稔 |
事業 |
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沿革 | 大正13年9月11日 | 母体である「崇信会(そうしんかい)」発足 |
昭和2年6月5日 | 「芦屋仏教会館」落成聖徳太子の御尊像を講堂正面のお堂に奉安 | |
昭和5年3月28日 | 「財団法人芦屋仏教会館」の設立認可 | |
昭和10年4月3日 | 仏教会館付属事業として、青年子女の法縁開発を目指し「崇信幼稚園」を開園(昭和60年閉園) | |
平成15年11月 | 阪神淡路大震災後の都市復興計画に基づき、芦屋仏教会館の建屋を西側に曳家で移動 | |
平成24年4月1日 | 「公益財団法人芦屋仏教会館」として新発足 | |
平成30年3月27日 | 会館建物が国の登録有形文化財に指定される。(官報告示 第28-0679号) | |
平成30年10月10日 | 会館建物が芦屋市景観重要建築物第1号に指定される。 |